TOP > 管理人プロフィール

管理人プロフィール

管理人インディのプロフィールです。

まずはここからですかね。

  • 1972年(昭和47年)9月10日生まれ
  • 大阪市在住
  • 身長 172cmちょっと
  • 体重 63kg
  • 仕事 水商売(ショーラウンジの音響&照明など)
  • 最終学歴 高卒
  • 2人兄弟の下っぱ
  • 未婚です

?

生まれたのは山口県下関市です。
比較的海に近いマンションへ、3歳まで住んでいたのですが、
その頃の記憶はほとんどありません。

海岸沿いに小さな公園のある風景の記憶があるのですが、
それは後に写真で見たことで覚えているだけかもしれません。


両親は職場で知り合ったそうです。


父親は銀行員で、非常に真面目で厳格な人間でした。


しかしやる時はやる性分だったようで、
母親と職場が同じでもほとんど喋ったことがなかったのに、
ある時突然プロポーズをしたようです。


母親は驚きますよね?
当然断ったそうです。
父親は一旦退くのですが、その際
「1年後にまたプロポーズする」と言ったそうです。


「そんで1年後にプロポーズしてきたから結婚したんよ」
と母親は言ってましたね。


その1年間に何があったかは聞いたことがありません。


両親は広島県出身で、職場である銀行で出逢い、結婚。
私の兄を産んだ後、転勤で下関へ越したそうです。


それから私が両親といる間に2度転勤しています。


私が3歳の時、神戸へ引っ越しました。
神戸市灘区篠原北町です。


家の目の前の坂道をまっすぐ下って行くと
篠原本町の、知っている人は知っているあの場所があります。
ま、これはサラッと流して…


社宅とは言っても、大きな庭のついた平屋の一軒家です。
庭に大きな桜の木があったことを覚えています。


古い家だったんですがね。
ゴキ●リはもちろん、でっかい蜘蛛やムカデにも
家の中でよく遭遇しました。
(私達家族がこの家を出た直後に取り壊されたようです。)


神戸に越して最初の記憶は、幼稚園ですね。


家から100数十メートルぐらい(本町とは逆方向に)
の距離だったと思いますが、母親と2人で歩いていると遊具のある公園みたいな場所があり、
私とそう変わらない年齢の子供達がたくさん遊んでいるのを見ました。


下関には、同じ社宅のマンションに住んでいた子など
友達が何人かいたのに、神戸ではまだ友達がいないことが
もしかすると寂しかったのでしょうか?


そこらの感情までは覚えていませんが、
とにかくその幼稚園を見つけたとき、
「あれ何?」「あそこ行きたい」
と、何度も母親に言っていたように記憶しています。


思えばこの頃から、新しいものや知らないものに
興味を持って飛び込んで行こうとする姿勢は
出来上がっていたのかもしれません。


ただ、幼稚園に入園するには「時期」というのがあるようで、
その時はその時期ではなかったんですね。


年齢的には大丈夫だったのですが、
おそらく転勤でバタバタやっていて、
幼稚園のことはあまり考えていなかったのかと思います。


あ、その頃は母親はもう専業主婦でしたし。
幼稚園にやらなくても母親が面倒を見れば良いと
思っていたのだと思います。


そんなこんなで、本来春の入園に備えて
手続きなど済ませておくべきなのですが
それをしてなかったわけです。


だけど私が興味を持ったせいで、
幼稚園側には無理を言って、途中入園させてもらいました(笑)


母親も困ったでしょうね。
今からじゃ入れないと言い聞かせたところで、
すぐ近所にその幼稚園があり、ことあるごとに
そこを見にいきたがるんですから、
もう入園させるしかなかったんでしょう(笑)


あとこれもその頃からすでに芽生えていた特長。
幼稚園の頃から、女の子と遊ぶのが大好きでした(爆)


これもサラッと流しておきましょう(笑)


というかこんな幼稚園時代の話から始めてたら
どこまで長くなるんだって話ですが…
先へ進めましょう。


そうしてやりたいようにやらせてもらいながら
小学校へ入学します。


小学校ではいろいろと習い事に通っていましたね。


剣道は、先に兄がやっていた影響でしょうか。
兄と一緒に水泳も、バスに乗ってスクールへ通っていました。
サッカースクールも通いましたね。
あと書道とか公文式とか、そんなところです。


腕白ではありましたが、それほど身体も大きくなかったので
さすがにガキ大将とまでは行きませんでした。
むしろ素直で真っ直ぐな、子供らしい子供だったと思います。


この頃はね。


もっといろんなことをやりたがっていました。
野球、柔道、空手、少林寺拳法とか、
あれこれやりたいとは言いましたが、
親も全部やらせるほど金持ちではありません。


そもそも金の話以前に、
「剣道はもう飽きた。次は空手をやりたい。」
こんなんでは親も許してはくれませんでした。


「やり始めたことを最後までやり遂げなさい」
そう厳しく言われたことを覚えています。


小学校5年に上がる年、また転勤が決まりました。


中学生の兄は、神戸の友達と離れるのはイヤだと
家では泣いたりもしていましたが、私は違いました。


新しい土地ってどんなところだろう?
そんなワクワクした気持ちが勝っていて
すごく楽しみにしていました。


あと引っ越したどさくさで剣道は辞めてやろう
などという考えもありましたし(笑)


そして引っ越した先は、岡山県岡山市です。

当時の私からみると田舎でしたね。
家のすぐ裏に田んぼがあるという環境は、
神戸の住宅街で育った私にはなかなか刺激的でした。


夏の夜はカエルの大合唱。
なつかしいです。


こちらも社宅で一軒家ですが、
神戸の家ほど大きくはなく、庭も狭かったです。


同じ造りの家が4件並んでいて、
それらは全て同じ会社の社宅でした。


その4件中、ウチを含めて3件に私と同じ年の子が住んでいて、
その子達とはよく遊びました。


剣道は続けるか迷ったのですが、
神戸で通っていた道場のようなところは見つからず、
続けるとしたら小学校の少年団。
そして教えてくれるのは担任の教師。


なんだかそれが許せなくて…
隣に住んでいた友達はそこへ通っていて、
私も神戸でやっていたのだから当然誘われたのですが、
結局その後剣道をすることはなくなりました。


書道も、神戸で通っていた本格的な感じではなく、
どちらかと言うとお習字教室と言った雰囲気で、
こちらは続けたのですが、ちんまり小奇麗な字を書く
周りの子達の影響を受けてしまい、以前のような
「とにかく力強く」という字は書けなくなってしまいました。


なんか他人のせいにしているように聞こえるでしょう。
確かに当時はそう思っていたと思います。


今思えば、環境など関係なく、
自分の信じたようにやり続けていれば
私の人生はもっと違ったものになっていたと思います。


そしてこの頃から、挫折と隣り合わせの人生が
始まったのだろうと思います。


今本気で思います。
あの時あきらめたすべてのこと。
もっと強い気持ちを持っていれば続けられたこと。
両親は、ちゃんと続けるように指導してくれていたのに。


小学生の時のこの選択が、
後のいろんなことに影響していると、
今振り返るとはっきりとわかりますね。

逃げたんです、私は。


中学に上がる頃には、続けているのは公文式だけでした。
公文式だけは人よりかなり進んでいたと思います。


やったことのある人はわかると思いますが、
年代別に全国の順位が出るんですね。
私はほぼ毎回、その年代のトップのページに
名前を載せてもらっていました。


中学ではほとんど授業も聞いてないし
たいした試験勉強もしないのに
割と良い成績をキープしていたのは
公文式のおかげだと思っています。


その代わり、社会科などの「暗記」が大事な科目はさっぱりダメでしたけど(笑)
地理なんて未だに苦手です。


英語の成績がよかったのは、
神戸にいた頃、近所に外人さんの家族が住んでいて、
母親が仲良くしていたんですね。


私より3つ4つほど下の女の子もいましたし、
比較的英語が身近にある環境にいたことが
影響していると思います。


あとは音楽。
小学生の頃はアイドル全盛期で、私も好きで聞いていました。


歌の歌詞にちょっとした英語が出てきますよね。
そういうの、意味がわからないとイヤで
自分で辞書を引いて調べたりもしていたので
周りの子達も、わからない英語があると
私に聞いてきたりもしていました。


中学ではロックを聞くようになってきて、
バンドというものにも興味を示すようになってきました。


そして高校受験の時期が来ます。


岡山5校というのがあるんですね。
公立のトップ5つの高校なんですが、
共通の試験を受けて、その5校のどれかへ配分されるんです。


もちろんある程度の希望は考慮してくれるようですが、
行きたい高校へ必ず行けるというものではありませんでした。
今もそういう制度なのかどうかわかりませんが。


担任の先生は、
「お前は今からでもやれば出来るんじゃけえ5校狙え」
とか言ってましたし、私もそれも視野には入れていました。


他に興味があったのが、
その年に新設された高校と、2年前に新設された高校でした。


この2校には、普通校でありながら
「国際コース」というのがあって、
英語を重点的に学べるんですね。


勉強し直して5校を狙うか?


少々レベルを下げて、
受験勉強無しで新設校の国際コースへ行くか?


この選択を決定付けたのは、
当時あこがれていた女の子でした(笑)


いや、その子が新設のその学校を受験するって言うんでね、
じゃあ俺もそこに決めた! と…
なんという不純…


まぁとにかく、
結局ほとんど受験勉強などせずにその学校を受験して
合格発表の日が来ます。


岡山駅から電車に乗り30分ほど、
降りた駅からさらに15分ほど歩いた場所に
その学校はありました。


学校に着くと、その好きだった女の子が
母親と一緒にいました。


その彼女の母親が、
「電車で来たの? 私ら車だから帰り乗せてあげる」
そう言ってくれました。


私も素直に、ありがとう、お願いしますと答えました。


これ、失敗でしたね(苦笑


合格発表を見に行くと、私は受かってましたが
彼女は落ちてたんですね…


それを知った時点で別々に帰ればよかったのに、
約束した手前どうすればいいかわからず、
あとやっぱちょっとでも好きな子と居たかったんでしょうか
一緒に車で帰りました。


いやぁ気まずいことこの上なしです(笑)


ま、その子とはそれで終りましたね。
思えば初めての本気の恋でした。
初恋なんて儚いもんです。


高校ではバンドをやるのが1つの目的でした。


入学したての教室では、出席番号順に並んだ関係で、
私の席は真ん中の列の一番前。
教壇の目の前です。


あとで聞いた話なのですが、みんな私を見て
少々恐れをなしていたようです。


ま、教壇の目の前という目立つ席で
ちょっと目つきの悪い男がふんぞり返って座ってるわけですから
当然と言えば当然かもしれませんね。
話すと気の良い男なんですがね。


その教室で生涯の友と呼べる男に出会いました。


そいつ中学時代は野球少年で、坊主頭だったんですね。
しかも野球やってた割には色白で、
なんかイモっぽい奴と最初思ったのを覚えてます。


その男が、
「ギターやってます。高校ではバンドやりたいです」
そう言ったわけです。


こんな奴が? とか、正直思いましたね、最初。


でもまあ、よく覚えてませんが
休み時間に話をしてみたりしたんだと思います。


最初に彼のギターを聞いたのがいつだか覚えてませんが、
これが凄いのなんのって!


話していても気が合いましたし、
第一印象なんて吹っ飛んで、一気に彼を好きになりました。


そして彼と、あと2人揃えてバンド結成。
3学年中、オーディションをして受かった3組だけが出られる
文化祭でのライブにも、1年生のころから出ていました。


高校時代はバンドのことばかりでしたね。
このメンバーでプロを目指そうなどと考えていました。
実際スカウトの話があったようななかったような…


まぁこれは結局、なんだかわからないまま消えた話ですが。


で、まあ卒業の時にまた担任の先生を困らせるわけです。


最初、サウンドエンジニア系の専門学校に
行きたいなどと言っていたのですが、何故か両親が
専門学校というものに難色を示しまして、
本当にちゃんとした学校なのかとか
わけのわからんところへ金は出せないだとか…


金のことばかり言う親を説得するのが面倒で、
じゃあ就職も進学もせずに、バイトしながらバンドを続ける
とか言いまして。


なんと親もこれで納得してしまいます。


担任の先生は、中学の時と同様、
やれば出来るんだから大学を目指せなどと言っていましたが。


そう言えばこの頃の全国模試だかなんだかで
適当に書いた志望校の一つの某芸大がA判定?とかで。


そのクラスでA判定を取ったのは私だけだったようで、
担任は「遊びがてらにでも受験しに行かないか?」などと言ってましたが、
「親が金のこと言ってるのにそんなこと出来るか」とか言って却下しました(笑)


あ、因みに高校時代の成績ですが、
入学時の新入生テストでは上から20番目ぐらい、
3年2学期の中間テスト辺りでは下から20番目ぐらいでした(笑)


やっぱ高校の勉強は、ちゃんとやらないとついていけませんね。
A判定というのは、そこを志望した人がそれだけ少なかったということです。


えーと、
まだ読んでくれてますか?
自分でもあまりの長さに今驚いています(笑)


高校卒業してからどんどん人生下り坂です。
興味のある方だけ読み進めてくださいね。
他人の不幸な話、好きでしょ?(笑)

あなたも好きですねぇ(笑)

では高校卒業からです。


結局就職も進学もせず、
まずは高校時代からやっていたバイトを
そのままつづけることにしました。


ギターの奴が大阪へ行ったので、
私も大阪へ行って、2人でメンバー探しから始めよう。
その為の資金をまず貯めなければいけませんでした。


家族から離れて大阪へ1人発ったのは、
その年の8月の中ごろだったと思います。


所持金20万円。


今思えばこれでどうやって部屋を借りたり
食いつないだりしたのか、はっきり覚えていませんが…
ま、パチンコ強かったですから、それだと思います。


とは言えパチプロと言えるレベルではなかったので、
仕事はすぐに探し始めました。


フロムAだかなんだかで見つけた夜のバイト。
自給に惹かれて、何も考えずに電話した先が、
いわゆる「ニューハーフ」のお店でした。


ショーをやっているお店で、
普通の男性のダンサーもいました。


因みにその男性ダンサーのうちの1人は
今はダンスを辞めて独立して会社を経営してらっしゃいます。
新潟へ行ってしまったのですが、今でも遠くから
私を気に掛けてくれる良い先輩です。


他にもここで一緒に働いた人で、
離れた今でも仲良くしている人が数人います。


それと、後にそのお店の雇われママになるニューハーフさん、
この人は今は自分がオーナーで店を持ち、
現在は私はそこで店長として働かせてもらってます。


で、まぁそのお店で最初はウェイターのバイトとして
しばらく働いていたのですが、夜ってしんどいんですよね。


バンドもやりたかったのですが、
メンバー探しや練習の時間もなかなか取れず、
気持ちだけ残してくすぶってました。


実は半年ほどでそのお店は辞めてしまいます。
バンドに集中したいとか理由を付けたのですが、
バンドが出来ないのは自分が怠けているだけだとわかってました。


しんどいからという理由だけで
店の仕事からもバンドからも逃げていたんですね。


ゲームも好きだったんで、仕事をしてない時は
寝てるかスーファミで遊んでるか、どっちかでした。


で、仕事辞めて何をしたかと言うと、またパチンコです。


パチンコってギャンブルですが、
正しいやり方をわかっていれば普通に稼げるんですよね。
しばらくはそれだけでちゃんとやっていけてました。


バンド活動も結局ほとんどせず、
適当にパチンコばかり打っている堕落した生活でした。


数ヶ月してパチンコの負けが込んできたとき、
このままじゃまずいというので、仕事を探し始めます。


当時、契約制の派遣のバイトというのが数多くありまして、
条件もかなり良かったんですよね。


その時の条件は、
・基本給 時給1000円
・全就業時間の8割出勤していれば皆勤 時給300円アップ


そんな感じでした。
全就業時間の8割となると、
月に2日は休んでも皆勤が付く計算になるんです。


しっかり毎月2日間は休みつつ、皆勤も付けてもらってました。


工場での仕事でしたが、夜の仕事を経験していると、
昼間の太陽が見える時間に働くことは
すごくラクに感じました。


その前の店で働いていた時は、
例えば土曜の夜、というか日曜の朝方に仕事が終り、
家に帰ってメシ食って寝て、
起きたら月曜の夕方だったなんてこともありました。


それにくらべてこの工場で働いていた時、
夕方仕事が終わったら友達と遊んで、
時には朝3時4時まで飲んで帰って、2時間ほど寝たら出勤
なんていうのも余裕でこなせていました。


あなたも太陽の光に当ってください。
そして暗い時間帯に寝てください。
昼間の睡眠では、なかなか疲れもとれませんよ。


そうこうしていると、ある日、
先程話したダンサーの先輩から連絡がありました。


ミナミに新しいショーパブがオープンするけど、
そこの照明や音響の操作をするオペレーターの人手が無い。
私ならそういう機材の操作もすぐ覚えるだろうから来ないかと。


先輩の頼みでもありましたし、
いつまでも時給で働いてるのもどうかなと思ったこともあり、
これを快諾しました。


いや?違ったかな?
とりあえずレッスンしてるところを見に来いと言われて行ったら
いつの間にか私も入ることになってたような気もする…


ま、快諾したことにしておきましょう(笑)


オペレーターとしてもう1人必要だったので、
例のバンドのギターの奴を引っ張り込みました。


そこでちゃんと音楽熱を再び燃やせればよかったのですが…
今度はプレイステーションっていう凄いのが現れて、
またゲームばっかりにはまっていくんですね。


その頃になると、自分の音楽に対する情熱は
すでに冷め始めていることに気付きはじめます。


何をやってるんだろう。
いわゆるまともな進路を進むこともなく、
反発して目指した音楽も中途半端に消えかけてる…


進む道が見えなくて迷い始めたのはこの頃です。


大阪で最初に働いたニューハーフの店のママが辞めて、
当時仲良かった人がママになってちょっと経ったころ、
そちらの照明とかをしてた人が辞めるので
私に来てくれと話がありました。


そしてそちらへ仕事場を移したのですが、
先が見えなくて迷っている私は、
これも半年ほどで辞めてしまい、
またパチプロ生活を始めました。


1年ほどすると、以前働いたミナミのショーパブで、
私の後釜で入った人が辞めるという話を聞き、
そこでまた働かせてもらうようにお願いしに行きました。


快くとはいきませんでしたが、
働かせてもらうことになりました。


ここでお客さんとして来ていた女性と仲良くなります。
別に色恋の話ではありませんが、あちらは私を
お兄ちゃんのようだと慕ってくるので、
それなりに可愛がっていました。


しかしその後8ヶ月ほどで、その店が閉店することになりました。


以前働いた店のママが閉店の噂を聞き、
その時すでに独立してミナミに構えていた店へ
来いと言ってくれました。


ここで働いている頃です。
先程お話した私を兄と慕ってくれる女性。


いろいろな事情があり、金に困っていたわけです。
借金が1000万以上あるとか。


ある時、どうにも首が回らなくて私に助けを求めてきたんです。
もう借りられるところはないので、私の名義を使って
どこかで借りてきてくれと。


ま、普通なら断るんでしょうね。
今思えばバカなことをしたと思います。


ただ私も、自分が何を目指してるのか、
どこへ向かっているのか何もわからなくなっていた時期でした。


まぁどうせ将来に大した目標もないし、
金も仕事もなくなったら野垂れて死ぬだけだ
などと、そんな精神状態でもありましたので、
引き受けてしまいました。


もしかすると、
そんな自分でも頼られたことが嬉しかったのかも。


これを何度か繰り返したのですが、
もうこれ以上いくと、もし何かあったときに
私にはケツは拭えない金額まできたので、
それ以上は頑として断っています。


まぁこのころは彼女も、どうにかこうにか
月々の支払いはやりくりしていたんですがね。


この頃働いていた店もいろいろあって、
実は数人で共同で立ち上げた店でして、
いざこざの末、肝心のママが真っ先に辞めてしまいます。


これで事実上崩壊したこの店は、
新しくママを迎えるも、その後半年ほどで
閉店することになります。


閉店が決まる直前にそこを辞めた私は、
少し前に辞めたメンバー数人と
新しく店を立ち上げました。


ここを立ち上げる時は、久々に目標が出来たという思いで、
準備期間数ヶ月の間、収入もなく睡眠時間もほとんどなく
それでも楽しみでワクワクしてたのを覚えてます。


しかしいざオープンしてみると
この店がまた上手くいかなくてですね…


早い話、ほとんどお客さんは入ることも無く、
店の借金ばかりかさんでいきました。


ビジョンはあったのですが、リサーチが足りなかったんでしょう。
私たちの提供する物を求めている人がいなかったんですね。


所詮みんなショーパブ上がりで、
店さえあればお客さんは来てくれると
思い込んでいたふしもありました。


それ以外にもいくつか原因は思い当りますが、
主にそんなところでしょう。


ここも1年ほどで閉店します。


そしてまた、以前働いた店のママに呼ばれます。
これが今現在働いている店になります。


そしてまた問題が起きるんです。


妹分が私名義で借りていたお金の支払いが滞り始めました。
毎月支払日が近付くと、数箇所から電話がかかってきます。


幸い、怖い目に合うようなことはありませんでしたし、
支払いが遅れつつもどうにかこうにか回してるようだったので
毎月の電話にはイライラしながらも我慢していました。


私が月々のをとりあえず負担しようにも、
その前の店がダメだった時に出来た借金もありまして、
私自身切り詰めた生活をしていたので出来ませんでした。


しまいにもう、金融屋からの電話には出なくなりましたね。
掛かってきた電話は無視して、電話があったことだけ
返済すべき彼女に伝えて…


そうこうしているうちに、
電話があったことも伝えなくなりました。
面倒で。


そうするとどうなったかと言うと、
数ヶ月後から、返済の時期だけでなく、
ずーっと毎日電話がかかってくるようになりました。


もう電話の音を聞くのもイヤなので、
彼女に電話して、いいかげんにせえよと言うのですが、
それでもずっと電話は掛かってきてました。


毎日鳴る電話が3ヶ月ほど続いたでしょうか。
頼みの綱であった私のクレジットカードが
突然の通知で、2週間後に停止されることになりました。


理由は明白ですよね。
もう任せていられないと、すぐ彼女に連絡して
私名義の借金は、とりあえず私が全て払うことにしました。
この頃には私自身の借金も完済が近かったですし。


とは言え、彼女の為に借りた金、
私がケツを拭えるギリギリまで借りていたため、
かなりの負担があります。


さらに止められたカードの支払いもありますよね。
けっこうギリギリでやってました。


ま、ギリギリやれてたんですが、この頃からです、
店の仕事以外に何か収入をと考え始めたのは。


人生投げやりな感じでいたのですが、
実際ギリギリで生活してみると、
もうちょっと上に行ってやろうと思うもんなんですね。


もう少し生きてやろうと思います。


幸い今はカードの支払いは終わって
4件あった金融屋の返済のうち1つも終わりそうです。


そのおかげで少し余裕が出来ました。


ネットで稼ぐ方法が無いかと、あれこれ検索する日々。


アフィリエイトという言葉は知っていましたが、
私のアフィリエイトに対する印象は、1クリック数円とか
たいして儲からない印象しかありませんでした。


もっと稼げる方法がないかと、いろいろ探し回っていると
なんだか怪しい情報も目に入ってきます。


幸い、それらが詐欺っぽいということは感じることが出来たので、
あまり高額な物に簡単には手は出しませんでしたね。


無料の情報や、有料でも1000円ほどで購入出来る物を
いくつか入手してみたりはしました。


それらは…
やってはみました。
だけど、詐欺ではないですが、副収入を得るためにがんばるには
なんとも面白くないというか、バカらしいというか…


出来ればそれを基にして独立まで考えられる方法、
仕事として真剣に取り組める方法はないものかと探していると
どうもアフィリエイトを本業として取り組んでいる方がいるようです。


安いとはいえ私もいくつか購入した情報商材。
これの、もっと高額で、内容もしっかりした本物を
高い報酬でアフィリエイト出来る。


これは知らなかったことなので、なんだか目からウロコのようでした。


ブログやメルマガでそれらを紹介して報酬を得る。
これならやれるかもしれない…


後発組は稼げないなどという話も目にしましたが、
ほんの1年ちょっと前に始めた人がしっかり稼いでいる。


私にも出来ないわけがない。


そう思い、2008年に情報商材アフィリエイターとしてデビューしました。


もう以前のような手探りの闇はありません。
私の進む道、目標がそこへ見えています。


そうそう、言い忘れてましたが、ささやかな夢があります。


広島の祖父に憧れています。
戦後1人で広島に会社を立ち上げて成功させた祖父。


祖母の死後、齢90いくつで、会社をほっぽって
娘である私の母親よりも若い女と駆け落ちした祖父(笑)


かっこよすぎます。

そんなバイタリティ溢れるジジイになりたいんです。


その為にはまず生活に余裕をもたせて、
次は結婚かな?


ここで花嫁募集しておきます(笑)

?

さて、ここまで読んでくれた奇特なあなたには
少しは私の人物像が見えてくれたことを祈っています。

?

長すぎるプロフィールを最後まで読んでいただきありがとうございます。


そして出来ればあなたも一緒に、
豊かな生活を目指しましょう!


アフィリエイトや情報商材の相談だけでなく、
メル友感覚でなんでもお気軽にメールしてみてくださいね。

?